益田川(飛騨川)の水神さま |
益田川(飛騨川)のほとりの水神さま
国道41号線沿い、萩原町朝霧橋のたもとに、「水除経王塔」の石碑が建っています。この碑は、文政2年(1819)年に益田川(ましたがわ)の洪水が治まることを願って建てられました。また、この石碑は、昭和33(1958)年7月24日〜26日の大洪水でいったん流され、捜し出されてこの位置に設置されました。 このときの大洪水は33災と呼ばれ、3日間で677mmもの降水量がありました。記録的な大豪雨であったことは、次の数字を比較するとわかります。たとえば萩原町の1991年9月1ヶ月の降水量は、505mm、高山市で223mmです。このとき、朝霧橋、益田橋、円通橋とも流されました。流出家屋は14戸、稲は水をかぶり河原になってしまいました。 もともと萩原町付近は、岐阜県内でも降水量が多い地域です。年間を通して、10日ごとの降水量のグラフを高山市と萩原町で比較すると、特に5月から9月にかけて、萩原町のほうが2倍から3倍の降水量があります。低気圧や前線に伴う雨は、萩原町で特に多いといえます。 低気圧や前線があるときの岐阜県の日降水量分布図を作成すると、益田郡からその西方の奥美濃にかけての東西帯状の地帯で降水量が多降水域になります。その理由は、益田郡が飛騨中央の山地の南側にあることと関係があります。つまり、湿った南寄りの風と飛騨中央の山地に残る比較的冷たい空気との間に、天気図の前線とは別の局地的な前線ができて、山地の南側の山麓で大雨になると考えられます。 高山盆地で降水量が少ない理由は、飛騨中央部の山地の北側は、山陰となって降水量が少ないからです。この雨が益田川に流れこみ、益田川を暴れ川とするとともに、飛騨を代表する広い河原をつくりました。(中田 裕一) |