益田郡萩原町  ホーム 目次

鹿供養塚と飛騨の小氷期


萩原町上呂の鹿供養塚 

 萩原町上呂には、鹿供養塚という碑があります。この碑文には次のように書いてあります。「江戸時代後期、文化5年(1808年)11月11日の豪雪では、半日ほどで約2mもの積雪になりました。このとき、イノシシやシカが食物を求めて山から迷い出てきて、川岸などで1,000匹以上も死にました。それを村人があわれと思って塚をつくりました(萩原町教育委員会)」。
 碑のある萩原町は、日本海測と太平洋側を隔てる分水嶺の約30km南側にあります。ここは、飛騨地方の中でも冬期の降雪の少ない地域です。当時、たくさんのイノシシやシカがいたことでしょう。碑文にある半日で2mという萩原の雪は、大変な豪雪だったと思われます。ちなみに分水領の北側、高山市におげる56蒙雪時の最深頓雪は96cmでした。当時の飛騨地方では、このような大雪がたびたびあったに違いありません。記録によると江戸時代後期の中部地方には、大雪が高頻度で現れたからです。この江戸時代の寒冷期を「小氷期」といいます。
 現在、雪に弱いイノシシやシカは飛騨北部に生息していません。江戸時代後期から明治時代にかけての寒冷期に、その生息域がいったん南下したためです。飛騨地方での南下の原因については、雪の他に「ブタコレラ」のような病気も原因になったといわれています。逆に現在は、飛騨も含め全国的にイノシシやシカ(ホンシュウジカ)の生息域は北上しつつあります。その理由は、温暖で小雪である冬季が増えたためです。かつてはイノシシが見られなかった、国府町付近までイノシシが現れるようになったと聞きます。
 自然の中にはもともと気候変化のリズムがあるので、温暖化と人類活動の関係を明らかにすることは困難です。しかし最近の観測・調査により、世界的な温暖化は人類活動の影響だと断定されました。(中田 裕一)