跡津川断層8 安政飛騨地震の石碑 |
この石碑は、旧河合村立元田小学校跡地(飛騨市河合町荒町)にあって、そこには一八五八(安政五)年に発生した安政飛騨地震(飛越地震)のとき、この地であった想像を絶する悲惨な出来事が記されている。石碑は、その地震被害の記憶が風化しないよう一九二三(大正一二)年に作られた。碑文は郷土の文人、岡村利平による。 地震は、四月九日(新暦)午前一時ころ発生した。碑文の内容には、向山の一角が欠け飛んで、荒町五戸と立石の四戸、元田の二村を含めた五三人が、その家とともに地中深く埋められたとある。 また、災害の古文書見舞帳の書き出しによると「大ぢしんうすり、あら町立石八は大きなる山ぬけ、みなつきうめ・・」とある。つきうめとは、山抜けの土砂が反対側の谷壁につき当たりあたりを埋めてしまうことで、現在荒町の集落はこの上に立地している。 石碑に近い所に元田商店(ガソリンスタンドと雑貨)があった。その主人の元田与喜三さん(一九九七、平成九年没)は、向山の岩石は、学校の跡地やもっと遠い元田鉱山(旧村営グランド)の所まで飛んだのだと熱心に話された。 河合村誌執筆者のひとりで村の歴史に精通されている永田忠臣さんの話によると、唯一助かった女性「おな」は当時の隣村の天生(あもう)へ子守に行っていたため難を逃れることができた。「おな」はその後、旧河合村保へ嫁いだそうである。 わずか一五〇年近く前の出来事で、数十年前には、親から直接聞いた話として、当時の様子を生々しくお話になるお年寄りが多くおられた。 現在この石碑の前に立つと、石碑の後、跡津川断層の北側には、地震のとき欠け飛んだ山の一部が大きく口を開けている。それも、時代とともに草木におおわれようとして時の流れを感じさせる。 (舩坂忠夫・飛騨地学研究会会員)2005年2月12日 |