跡津川断層7 断崖「長とら」が崩壊 |
江戸末期、北飛騨を襲った安政の飛騨地震(一八五八年、安政五年)は、断層直上での被害が大きく、典型的な直下型地震であった。マグニチュード(地震規模)は七・○と推定される。ちなみに、同じく直下型の新潟県中越地震は、マグニチュード六・八である。 この地震は、跡津川断層が走っている飛騨市宮川町にも大きな被害をもたらした。その中で最も甚大だったのは丸山地区であった。丸山地区は、道路脇に北側が二、三メートル高くなった断層崖も残っていて、断層に沿う深い谷の中にある。 宮川村史によると、丸山では断層の北側、宮川の対岸にそびえ立つ断崖の「長とら」が、一瞬のうちに崩れ落ちた。岩塊は宮川を埋め、対岸の民家を飲み込んだ。丸山地区だけでも死者は二六人に上る。森下家では、一家一四人全員が土砂の下敷きになって亡くなった。一九五四(昭和二九)年、縁者の森下清次郎氏はこの悲惨な出来事を後世に伝えようと、同家の裏側に「震災死没者追悼碑」を建てた。「長とら」の地は、宮川町の史跡に指定されている。 二○○三(平成一五)年、宮川小学校では、夏休みに「ふるさと歴史教室」を行った。その時、案内者の金山勝彦さん(町文化財審議員)から飛騨地震について説明を受け、この地で史跡見学をした。 写真の右、今も花を供えてあるのが「震災死没者追悼碑」である。「長とら」崩壊地(写真の奥)は今ではすっかり草木が生えている。しかし、今なお岩肌が露出している所が見られ、当時の凄惨(せいさん)さの片鱗(へんりん)をのぞかせている。石碑は、一五〇年近く前の出来事を静かに物語り、地震の怖さを今に伝えている。 子ども達は、金山さんの話をメモしながら、当時の地震のすごさと、自分たちの祖先が厳しい自然と向き合いながら、たくましく生きてきたことを感じ取ったに違いない。 (田中博・飛騨地学研究会会員)2005年2月5日 |