ひだ地学61号 1999年4月10日発行   ホーム 目次

安政5年の角川地震の被害と断層について

 舩坂 忠夫

 1 突然人々を襲った災害
 今から142 年前のこと、飛騨の山里にひそかに暮らしていた人々に突然、筆舌には尽くせないほど悲惨な出来事が起きました。1858年に飛騨地方を中心に被害をもたらした飛越地震です。飛騨では地震の被害が大きかった角川(つのがわ)の地名を代表して、角川地震ともいいます。

図1 河合村史の地震史料

 この地震は、跡津川断層の活動とともに発生しました。人々が、一番しっかりと動かないものと信じていた大地が地の底からくだけ引き裂けました。特に人々の生命を多く失った河合村元田の荒町、宮川村の丸山、河合村稲越の桂上(けじょう)では、大量の岩石と土砂が山から放出し、それが家を直撃して大変な悲劇になったといわれます。
 図1は河合村誌史料編下巻からの地震に関係のある部分の一部です。絵が入っているので、地震による災害の様子がよく理解できます。この図では、山抜けの岩石が保木の田畑を埋め対岸の向こうまで埋め尽くしたことがわかります。

2 元田の新町の地震による被害について
 元田へ行って最初に心をひかれるものに、地震の被災を記録した石碑があります。それは、元田小学校跡の校地のかたすみにあって、次の文章が書かれています。

    安政五戊午年二月廿五日夜子ノ刻飛騨越中越前に起リシ大地震
    ニテ小鳥小鷹利下高原下白川ノ四郷七十箇村二亘リ全壊寺院九
    民家百十二半壊寺院七民家三百七十即死貮百三人負傷四十五人
    斃死牛馬八十七就中小鷹利郷元田村荒町下立石八小鳥川を
    隔テ古ヨリ荒町長平長四郎清蔵源左衛門甚蔵の五戸立石
    二八三郎喜三郎善右衛門弓三郎ノ四戸アリ此時向山ノ一角決け
    飛シテ川向荒町ヘ落チ反動更に北ノ立石を衝キテ九戸五十三人其
    家と共ニ地底深ク埋メラレ唯一人清蔵ノ女おな奇シク死を免ル
    震動ノ激列思ウベシ斯ル遺跡ノ成立ハ世人記憶ノ外ニ逸スルヲ悲
    ミテ元田文教場主任塩屋吉郎河合村青年団元田支部員ト集
    リ弔魂ノ為ノ此碑を建ツ
     大正十二年十一月上幹岡村利平撰文 長瀬清蔵書之

 この石碑の文章中の数字は、災害史の資料とは少し違います。資料での飛騨の被害は、全壊が寺院をふくめ319戸、半壊が385戸、死者は203人(この数字のみ石碑と一致)、負傷者は57人です。また災害史の資料での元田の死者数は56人です。しかし、数字は異なっていても、地震の激しさや、石碑を建てた人の気持ちが伝わってきます。
 このような大きな被害が発生した現場へ行ってみました。そしてどの山が抜け、どれくらいの土地がこの山の岩石で埋められたのか現地で観察しました。学校跡からの向山とはどれでしょうか。学校跡から小鳥川の向こうの北側から北西の山を観察すると、あまり草木が無くて山肌がむき出しで岩がよく見えるところがあります。その岩が割れて飛び散ったためできた大きなくぼみもわかります。たぶんそこが向山でしょう。そう考えると「向山の一角決け飛して川向の荒町へ」という表現が理解できます。

図2 河合村元田の荒町付近の地形図(2万5千分の1)
図3 河合村元田の荒町付近の縦断面図(模式図)
 欠け飛んだ山体の崖は図2の地図でわかります。その飛んだ山の一角は、地図のどこに落ちたのでしょう。崖の下の小鳥川も埋まりましたが量は少ないようです。証拠は、河合村誌の復旧工事の証文にあります。村誌の「元田村地内字漆小鳥川切割浚請負証文」では、「長弐拾間(36m)但平均巾四間深五尺此石土六拾六坪七合 安政五年五月廿九日 越中国砥波郡金屋村請負人黒鍬市三郎 印」となっています。
 飛んだ山の一角は碑文のいうように小鳥川を飛び越えて、地形が不自然に高い荒町の学校跡やその周囲を埋めたのでしょうか。そうならば、校地に比べ低い川を土砂が飛び越えて、学校跡まで飛んできたことになります。しかし自然に考えれば、校地の高まりはむしろ南側の山の斜面からの土砂のように思えます。
 そこで学校跡の前の店主、元田与喜三さんに地震に埋まった場所を聞くと熱心に話されました。この話を事実だとすると、欠けた山の大部分は、やはり小鳥川を飛び越えて学校跡付近を含む荒町へ落ちました。とすれば、遠いところでは崖から直線距離で450mも土砂が飛んだと考えざるをえません。元田さんによれば、今学校や家がある場所は地震の時に山から来た土砂に埋った所で、川の南側の高い所(前鉱山の社宅であった所からグランドになっている所まで)も向山の土砂で埋まりました。また学校の北側の低い所に牛小屋を作った時、下を掘ったら古いカヤが出て来ましたが、埋まった家の物かもしれないなどと聞きました。(元田さんは平成9年に亡くなられました。)
 では、山の一角が小鳥川を飛び越えてしまった理由は何でしょうか。図3に示すように欠けた山体は、跡津川断層沿いにあり、牛首断層との間の大きな岩体の一部です。両方の断層が地震とともに動いた時、この山の一角に力が集中して、山体を飛ばす大きな原動力となったと考えたらどうでしょうか。その後、この場所は時々通りますが調査は進んでいません。

A 家が3戸埋まったところ
B 道路工事で断層露頭が出たところ
C 粘土化した露頭があるとこと
D 調査した谷

図4 河合村稲越桂上周辺の地形図(2万5千分の1)


3 稲越での被害はなぜ起きたのか
 稲越の桂上では、山が欠けて民家を直撃しました(図4)。このとき3戸が埋まり11人の死者が出ました。ところが、桂上に比べて跡津川断層に近い曲淵でも大木でも芦谷でも家や人に被害がありません。
 なぜ桂上で局地的に被害が出たのでしょうか。その理由を、桂上には跡津川の主断層とは別の活断層があり、それが動いたからだと考えました。異常な力が岩盤に加わり桂上の山が欠け飛んだとするのが妥当です。
 そこで、桂上から大木付近で断層の証拠を探しました。ちょうど昭和57年の道路改良工事で、図4のB地点を切り通して直線にする工事が始まりました。見に行くと切り通しの部分が活断層の破砕帯でした。破砕帯は5m以上の幅があり、粘土化した部分も縞状にありました。粘土化した破砕帯は、道路の左手の山、C地点の山にも見られます。
(スライド写真あり)


図5 安政5年2月26日九ツ半(1858年4月9日午前6時)角川地震の被害についての説明地図

大木の東の谷(D地点付近)を調べました。D地点に、破砕帯の岩盤が細かく割れた部分がありました。しかし、活断層の特徴であるずれた跡は見当たりません。
 永田忠臣さん(河合村誌編集者のひとり)の話によると、湯峰トンネルの工事のとき稲越側に破砕帯があって大きく崩れたので、トンネルの工事変更を行ったそうです。
 以上から、断層破砕帯をもっと調べようと思いますが調査は進んでいません。

4 まとめ
 図5に角川地震での被害をまとめました。これによると角川地震で死者の多かった場所は、元田(56人)、丸山(26人)、角川(23人)、稲越(11人)です。住民数に対する死者数の割合は、丸山(26人/57人中)と元田(56人/266人中)で大きくなっています。ただし元田では、元田の中でも新町とよばれる所で主に被害を受けているので、新町だけの統計資料があればもっと死者数の割合が大きくなるでしょう。被害の大きさを単純には比較できません。
 現在のところ、次の2点について問題意識を持っています。ひとつは山の1角が飛んだという元田での被害の実情や地震活動の実態を現地調査で調べること、もうひとつは跡津川断層から数km離れた稲越の桂上で局地的に被害を生じたのはなぜか調べることです。桂上よりも跡津川断層に近い芦谷や大谷で被害がないのが不思議です。桂上付近には隠れた断層がある可能性があります。今後、以上の2点を中心に調べたいと考えています。