今年度、第1回目の巡検は、日本地質学会中部支部で計画した巡検に便乗させてもらいました。6月4日、集合地の清見インターには、岩田副会長、中田会員の2名が集まりました。さっそく、白川村から東海北陸自動車道で富山県旧福光町吉見の採石場に向かいました。天気は、薄日が射す曇りで、まずまずです。この巡検では、約2000万年前頃、日本海が開いて現在の日本列島が分離始める頃の火山岩や地質をめぐることになります。
採石場で待っていると、自動車5台ほどに乗った参加者がやってきました。責任者はK大学のI先生でした。この採石場では、世界で最もストロンチウムに富むアダカイト質安山岩を採取しました。そして採石場の急な自動車道を上に歩いていきました。飛騨地学の巡検では自動車を使う所ですが、さすがプロ集団です。肩に大きなハンマーを背負って、気合いの入っている人がいました。岩田先生があいさつをしていたので、その人はS大学のH先生だとわかりました。
ここの安山岩は、厚さ100m以上の溶岩ドームをつくっているとのことでした。また噴出時の捕獲岩として、花崗岩や流紋岩が入っています。しかし、岩石が2000万年前とすると、溶岩ドームの地形は侵食されているはずです。ドームの上にさらに別の岩体が乗ったのかもしれないと、岩田先生と話しました。ここでのH先生のハンマーの威力は絶大で、大きな岩石がばんばん割れました。
次に行ったのは、打尾川に沿う岩稲累層の安山岩です。岩稲累層は、先ほどのアダカイト安山岩に覆われていて、地質としては下位にあります。林道をずっと登って行くと、林道脇に露頭の崖が続いていました。ここの見所は、陸上溶岩と水中でできた火山岩が接していることです。日本海が開く頃、浅い海で火山活動があったことがわかります。また枕状溶岩(海底に出た溶岩が固まってできる丸い石)が見られますが、ここは安山岩の枕状溶岩です。枕状溶岩といえば海嶺や海底火山の玄武岩と思いこんでいましたが、そうとは限らないことがわかりました。また、同じ岩稲累層でも、海洋的要素の強い玄武岩と、陸上で火山フロントをつくる安山岩の境界が富山県にあるといえます。つまり神通川流域に当時(約2000万年前)の火山フロントがあったといえるそうです。岩田先生は、露頭から、日本海が開くイメージを得るところが地質学の醍醐味だと言っていました。
この後、臼中ダムまで移動して、ダム湖畔で昼食となりました。薄日の射す中、湖を見下ろしながら、日本海が割れる様子を想像しました。昼食後、上流に向かいトンネルの手前で自動車を止めました。そこは刀利礫岩層という地層です。この地層は扇状地性の堆積物で、手取層群(恐竜化石の見つかった地層、約1億2000万年前頃)等のれきを含みます。ここでは、当時、日本海が開いたころにできたと思われる断層が見えました。説明図と見比べると、断層境界の上の地層がずれ落ちているので、正断層であることがわかりました。正断層は、大地が引っ張られる場にできるので、飛騨の現在の活断層(逆断層)では見あたりません。
次に行ったのが、月長石流紋岩の露頭です。月長石とは、青色や乳白色の閃光を発する長石の鉱物の総称です。岩石の中で、きらきら青く光るのがそれだといわれました。この月長石流紋岩は、日本海形成初期、海底が上昇するときの火成活動に関係するといわれます。
最後に、峠を越えて旧平村の合掌集落、相倉(あいのくら)に行き、ここで見学後、記念写真を撮影して解散でした。責任者のI先生はお疲れのようで、僕らと同じくアイスクリームを食べていました。
岩田先生は、目指すことが同じ仲間がいることを心強く感じたそうです。自分も、日本海が後で開いたことは知っていましたが、その証拠を野外の露頭から読みとれて新鮮でした。また机上の知識が、実際に役だったので、今回の巡検は実り多いものになりました。巡検案内書の最後は次のように結ばれていました。
「一見平和そのものに見える合掌集落は、実は江戸時代に、加賀藩が火薬の原料である塩硝を生産するための軍事施設として建設した。――――すべて物事には、表面からは伺い知れない恐ろしい部分があるという好例である。本巡検はこれで終わります。ご苦労様でした。」
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